家族間の意見の相違

昨日は、死に様は、生き様ってことを、

学園前の師匠のところで、話題になり、

自分なりに感じることがありました。

帰宅して家族とちょっと口論になった時は、

わたしが前向きな姿勢がおかしい。果ては非常識という家族が居て

えっ、お、おかしい?どーゆーこと?(;)

つまり、生き方に理解を得られなかったわけですが、

そんなんほっといて欲しいのですが

昨日のテーマは生き様の話だったようですね。

父の人生が終焉を迎えるにあたって、やっぱり家族としては

生き切って欲しいし、そこをサポートしたいって思うわけです。わたしなんかは

でも、その人の生き切り方とか、生き様って、その人らしさじゃないですか?

ここに正解はないわけですが、

その人らしさの認識に家族にズレが生じる。

ま、そこまでオーバーじゃなくても、

どこまでの処置を望むか?という話では、

本人がちょっと認知症ぎみだったりすると、意思確認はややこしくて、

どうしたい?という意思がわかり辛かったり、

答えてくれても、聞き方によってコロコロ変わる面もあったりで。。。汗

例えば、家族の一人が父はこう言った、私が確認したと言っても、

他の家族に思い過ごしじゃないか?と突っ込まれたりで、

良かれと思ってサポートしようとすること自体も、

時にはトラブルの元になるんですよね。

聞き方に問題はないか?

誘導尋問をしていないか?

情報操作をしていないか?

などの疑いがかかってくる

こっわ〜〜!書いていて恐いです。

これ家族間の話ですよ。

ちょっと脱線してますが、そのような疑義を晴らすために、

父への意思確認の質問は他の家族が居る前で行うか、

各が聞いてみて、一番回数の多かった父の回答を父の意思として参考にする。

みたいなことをしていました。

そうして、とりあえず、元来の父ならばきっとという近似値に

なんとか迫ろうとしてたわけですが、

でもやっぱり、家族と言えども、見る人によって解釈が異なるんですよね、

ややこしいのですよね。

各の見方の問題もあれば、今までの父に関する状況把握度も違うし、

医学知識も異なるわけで

共有が出来ていることもあれば、出来てないことも圧倒的にあったりするし、

家族間で意見の相違は出てきてしまう。

そこから、意見をまとめるのにはかなりの調整力が要るものです。

そんなことから、我が家はギクシャクしがちになってました。

日常的ないろいろな事柄の見方もそうだし、

看取りとなれば、そこから踏み込んでいくわけで、生き様をどう思うのか、死生観は?

となっていく話なので、ですよね。

父ならばきっとと想像しているにも関わらず、

それを映し出している自分達には、それぞれに問題がある。

固有の価値観でこうすべきなのでは?の縛りもあれば、

こうしないと不安だとか、私はこう聞いたのだ!とか、

各の心が反映されてくるものなのです。

私はこう聞いたで、お釈迦さんの弟子たちも色に聞かれて、

揉めがちだったようなので、我が家が揉めるのもなんら不思議はないんですけどね〜

結局、父の生き様はどうかいな?あるべきようは?という話のはずが、

さまざまな心理的な抵抗の勢力に押されていき、

各が受け入れ易い父の生き様へと、

微妙に変形していく面がある。。。

あれれ、それちゃいますやん!!的な

やっぱり原点に戻らないといけません、出来るだけ。

そんなこんなが、いっぱいありました